2017年10月23日月曜日

はじめの8冊 

本をさがしに(1)



 先日、ある編集者から「本や出版社のことも、書き残しておくといいですよ」と勧められた。そういうことを言われたのは初めてだったのでびっくりしたが、覚えていることを落穂ひろいのように書いてみるのもいいかなと思いはじめた。
 そんなわけで、「本をさがしに」というカテゴリーを作った。思いつくまま、これまで私が見てきたスペイン語圏の本のこと、出版社のことなど、本をめぐることを書いていきたい。
* * * * *

 本気で翻訳に取り組もうと決心したころ、何をやったら翻訳者になれるのだろうとヒントを求めて、翻訳学校の児童文学お試しクラスというのに出たことがある。英語で学ぶのはワンクッションあるので、学校に通うには至らなかったが、そのクラスで活躍中の翻訳家であった講師に言われた一言が心に残った。
「翻訳家は情報を持つことも大切。翻訳するだけでなく、本の情報を集めなさい」という言葉だ。

 その後私は、何かおもしろい本がないかと、いつでもどこでもスペイン語の本をさがし求めるようになった。しかし、私が最初にスペイン語の児童書を手にしたのは、それより3、4年前のことだった。1988年、まだ福武書店(現、ベネッセコーポレーション)で辞典の編集をしていたときだ。
 いつか翻訳の仕事をしたいと思っていた私は、どういう分野からなら、スペイン語で出版翻訳の世界に入れるだろうかと考え、児童書はどうだろうかと思いついた。その時点では、自分が子どもの頃に読んで楽しかったというぼんやりとした思い出しかなかったのだが、じゃあ、どんな子どもの本があるのだろうと、旅行を利用して本を買ってきたのだ。

 スペインへに行ったはそれが2度目だった。知っている書店は、学生時代に初めて旅行したときに恩師に教えてもらった、グランビア大通りにあるカサ・デル・リブロ(本の家、Casa del Libro)だけ。インターネットはなく、旅行ガイドや口コミ情報が頼りの時代だ。ほかの書店など知る由もなく、その時も向かったのはカサ・デル・リブロだった。
 
 書店に着くと、児童書売り場をさがし、そこで「スペインの子どもたちに読まれている、スペインの作家の本を10冊ほど選んでくれないか」と店員さんに頼んだ。はなはだ頼りないスペイン語だったけれど、たぶん通じたと思う。

 記憶を頼りに、その時買った本をかきあつめてみた。

Joan Manuel Gisbert, El misterio de la Isla de Tökland
ジョアン・マヌエル・ジズベルト『トークランド島の謎』
Concha López Narváez, La tierra del Sol y la Luna
コンチャ・ロペス=ナルバエス『太陽と月の大地』
Juan Farias, Algunos niños, tres perros y más cosas
フアン・ファリアス『子どもたち、犬3びきと、その他いろいろ』
Fernando Alonso, El bosque de piedra
フェルナンド・アロンソ『石の森』
Antoniorrobles, Cuentos de las cosas que hablan
アントニオロブレス『話をするものたちのお話』
Fernán Caballero, Cuentos de Encantamiento
フェルナン・カバリェーロ『おとぎ話集』
Juan Ramón Jiménez, Canta, pájaro lejano
フアン・ラモン・ヒメネス『うたえ、とおくの鳥よ』(詩集)
Maria Gripe, Los hijos del vidriero
マリア・グリーペ 『忘れ川をこえた子どもたち』  
 
 ずっと「はじめの10冊」と記憶していたけれど、8冊だったのか! 今となっては確かめようがない。
 しかも、最後のマリア・グリーペは、スペインではなくスウェーデンの国際アンデルセン賞作家だから笑ってしまう。店員さんも、スペイン人だと思いこんでいたのだろう。
ヒメネスの詩集の値段は350ペセタ。

 これらを読んで私は、スペインにもおもしろい児童文学がありそうだ、児童文学の翻訳をやってみようと決心した。しかも、その後も何かと、この8冊には世話になった。
『太陽と月の大地』は、今年、30年近い時を経て福音館書店で翻訳出版した。ジズベルトは私の翻訳デビュー作の作家だ。フアン・ファリアス、フェルナンド・アロンソはほかの作品だが、その後翻訳する機会を得た。
 昨年刊行した『名作短編で学ぶスペイン語』に収録したフェルナン・カバリェーロの1編も、このとき買ってきた本から選んだし、数年前、NHKのラジオ講座のテキストでLeer y cantar というコーナーを担当したとき、この詩集にあったヒメネスのヒナゲシの詩を載せた。

 マリア・グリーペの本以外は、みなエスパサ-カルペEspasa-Calpe という出版社のアウストラル・フベニルAustral Juvenil というシリーズだ。
 これは、歴史ある文芸出版社エスパサ・カルペが1981年に刊行を開始した子ども向けのシリーズで、1995年まで159タイトルを名編集者フェリシダー・オルキンFelicidad Orquín が担当した。
『ハックルベリー・フィンの冒険』、『灰色の畑と緑の畑』、ドリトル先生シリーズなど海外の作品も充実し、民主化した新しい時代のスペインで、最初の本格的児童文学シリーズとして親しまれた。
 私が本さがしの旅を始めた1994年、1997年にも、書店にはこのシリーズがずらっと並んでいた。

 その後、エスパサ-カルペはプラネタPlaneta グループに吸収された。エスパサレクトールEspasalector にインプリントを変えながら、これらの1980年代の本はしばらくの間は生き残っていたが、今は残念なことにほとんどの作品が姿を消してしまった。

 11×17センチというこぶりの並製で、中は白黒という質素なつくりだが、1点1点ていねいに挿絵が入っている、子どもと本への愛情がにじみ出たシリーズだった。
 
 あのとき、このシリーズの本に出会えたのは本当に幸運だったと思う。

2017年9月30日土曜日

補習校に行こう!

バルセロナの日々(21)


 小学校がはじまって1ヶ月。子どもたちのストレスは、日ましにふくらんでいった。
 ちんぷんかんぷんの言葉の中で、身振りや表情、数字や教科書の挿し絵など、わかるきっかけを探しながら毎日九時から五時までしのいでいるのだから無理もない。辛いだろうと思ったけれど、「辛いでしょう。ごめんね」とは、口にできなかった。言っても状況は変えられない。クレンフォルをやめさせるわけにはいかない。子どもが学校に行ってくれないと私は大学に行けず、スペインに来た意味がなくなってしまう。愚痴や弱音をききだしたら、きりがなくなりそうでこわかった。最初から無理は承知だったのだ。気の遠くなりそうに長いトンネルをいく気分だったけれど、後戻りはできない。いつかは外に出ると信じたかった。
 それにしても、子どもたちの負担を少しでも軽くしてやることはできないだろうか。

 10月半ば、やっぱり調べてみようと決心したのは補習校のことだった。
 海外の日本人学校には、土曜日、ウィークデーの学校と別の形で、日本人の子どもが集まるクラスがあるというのをきいたことがあった。バルセロナの日本人学校にも、そういうのがあるかもしれない。通わせられるかわからないけれど、ともかく調べてみよう。
 領事館で日本人学校の電話番号をきき、土曜日のクラスのことをたずねた。学校とはまったく別組織だが、日本人学校の校舎を使って土曜日にやっている補習校というのが確かにあるという。日本人学校は、私たちが住んでいるサルダニョーラの隣町、サンクガットにあった。
 問い合わせ先として教えてもらったのは、リコさんの電話番号だった。大学のあるベリャテラに住んでいるというリコさんは事情を話すと、「ともかく一度見にきたら?」とさそってくれた。「足がないなら、うちの車でのせてってあげるわよ」と言う。電話をしただけで、いきなり好意に甘えていいのだろうか。一瞬迷ったものの、場所もわからない日本人学校に1人では行けそうにない。この際、お願いしてしまえ。そんなわけで、翌々日の土曜日にさっそく見学することになった。

 土曜日、子どもたちは興奮ぎみだった。どういうことかよくわからないけれど、日本人、それも、ひょっとしたら自分と同じような年の子に会えるかもしれないというのだから無理もない。でも、ぬか喜びに終わったらかわいそうだ。「通えるかどうか、行ってみないとわからないんだからね」と、私は念を押した。
 リコさんにベリャテラの駅で拾ってもらうと、十分足らずで小高い丘の上にある日本人学校に着いた。手前にヒューレットパッカードの工場があるが、学校のまわりは広々とした草地だ。子どもを乗せた車が、次々と到着する。
「おはよう。元気?」
 日本語のあいさつがとびかう。それだけで、みるみるケンシたちの緊張がほどけていくのがわかった。

 補習校では、幼稚園の年中から中学生までの子どもたちが、国語を中心に、毎週土曜日3時間の授業を受けていた。保護者の手による自主運営の塾のようなものだ。
 子どもの大半は、日本人とスペイン人の国際婚ペアの子どもだった。ふだんから日本人の親と日本語で会話している子もいれば、そうでない子もいる。日本人学校は幼稚園がないので、就学前の子どもを連れてきている両親とも日本人の赴任家族もいたが、どっぷりと日本で育ってきた小学生は少数派だった。

 学校の概要やしくみなどは、一回説明をきいただけではよくわからないこともあったけれど、その日が終わったとき、ともかく通わせてみようと決心していた。
 というのも、子どもたちのそんなくつろいだ表情を見るのは久しぶりだった。思った以上に現地育ちの子が多く、子ども同士のコミュニケーションの意味では正直やや物足りない気がした。でも、何十人かの日本人が集まる環境の中で、子どもたちは、毎日の生活では見せない、穏やかな顔を見せた。
 通学は心配だったけれど、行き帰りタクシーでも通えないことはない。出費はかさむが、背に腹はかえられない。こういう場があるのを知った以上、通わせないわけにいかないではないか。
「困ったことがあればなんでも言ってくださいね。みんなが助けてくれるから大丈夫」という委員長のIさんの言葉にささえられて、土曜日の補習校通いがはじまった。

 でも、補習校で救われたのは、子どもたちではなく、実は私だった。
「ようやるわ、と思ってたよ」
と、そのあとさんざん世話になった、同じ町に住むクルコさんがあとで言っていた。
 私たちの事情を話すと、現地生活の長い日本人の保護者たちはびっくりし、その後、数え切れないほどの場面で手をさしだしてくれたからだ。この親同士のつきあいについては、思い出すたび胸がキュンとなるのだが、またあとであらためて触れたいと思う。

2017年9月14日木曜日

『エンリケタ、えほんをつくる』紹介情報1


 先月末に刊行になったリニエルス『エンリケタ、えほんをつくる』(ほるぷ出版)ですが、千葉市の児童書専門店「子どもの本の広場 会留府」のブログ「エルフ通信」で紹介されました。こちらです。
「読んでいるうちに私も昔こんなことして1人の時あそんだっけ!と思い出しました。」「時々こういう楽しい本にであうと、エンリケタのように元気がでます。」など、うれしい言葉がいっぱい。ありがとうございます!

 会留府さんは、読書会や憲法カフェなど、定期的にさまざまなイベントをしながら、こうして新刊を1冊1冊、ていねいに紹介し続けていらっしゃいます。ブログの右側のイベント欄も注目です!

 ところで、上の写真は、先日、この本の刊行記念イベントが開催されたホォアナ・デ・アルコの表参道店のレジ奥にかけてあったリニエルスの原画です。アルゼンチンの大手新聞「ラナシオン」に10年以上続いているリニエルスの「マカヌド」で、2011年3月13日に掲載されたカートゥーン。

「このハグが日本にとどきますように」

 まだこの原画、かかってるかな。
 ホォアナ・デ・アルコでは、リニエルスの絵の入ったTシャツやぱんつも売っていますよ。

2017年9月6日水曜日

『いっぽんのせんとマヌエル』


『いっぽんのせんとマヌエル』
マリア・ホセ・フェラーダ文
パトリシオ・メナ絵
星野由美訳
偕成社

 先月末に刊行された上記の絵本をかいた、チリ出身の作家と画家が来日し、今日は神保町ブックハウスカフェでイベントがありました。
2017.9.4 神保町ブックハウスカフェで・
左からフェラーダさん、星野さん、メナさん。

 1本のせんを中心にしてマヌエルくんの1日をたどった、こぶりのかわいらしい絵本です。

 この絵本の特徴は、ピクトグラムがついていること。
 そもそものきっかけは、作家のフェラーダさんが、ピクトグラムつきの絵本を読んでいる自閉症のマヌエルくんとお母さんの映像を見たこと。その後、実際に二人と出会い、「せん」にこだわりを持つマヌエルくんのことをみんなが知ってくれると同時に、マヌエルくん自身も楽しめる絵本をつくろうと、この絵本がうまれたとのこと。
 ガリシア地方に滞在していたフェラーダさんと、バルセロナ在住のメナさんが、マヌエルくんとお母さん、カウンセラーさんと学校のほかの子どもたちにも何度も見てもらいながら、苦労しながら仕上げていったそうです。

 今日のお話を聞いてなるほどと思ったのは、学校から帰ってきたマヌエルくんが、「せんの むこうの ママと あくしゅ」する場面。
 なにげなく読んでいましたが、フェラーダさんの説明によると、自閉症の人はほかの人と関係を持ちにくく、感情を表現するのもむずかしい。けれどもここで、家に帰ってきたマヌエルがにこにことママとあくしゅするというのは、自閉症の子どもでも自分からこのように握手することもできることをあらわしている、とても重要な画面だとのこと。
 線があるから、安心して人と関係を持てるということも、原文のpor ella(por la linea線によって) は表しているのかなと改めて思いました。

 スペイン語版にはピクトグラムはついておらず(出版社のホームページからダウンロードできる)、日本語版では、スペイン語版のピクトグラムをもとに、訳文に合わせて独自にピクトグラムをつけていったそうです。
 そのあたりのプロセス、製作の工夫も偕成社の編集者の千葉美香さんが説明してくださいました。日本語の意味に合わせて、画家のメナさんが、新しい図案でつくったものもあります。この絵本は、日本だけのオリジナル版になっているのです。
 テキストの語ること、絵の語ることをそこなわずに、ピクトグラムというもうひとつことばを添えていくという試みは挑戦だったが、たいへん豊かな経験だったとメナさんが語っていました。

 ラテンアメリカ発の、新しいバリアフリー絵本。
 公共図書館はもとより、この絵本そのものを楽しめる保育園、幼稚園、小学校はもちろん、インクルーシブな試みや福祉について学ぶ中学校、高校、大学でも、置いてもらえますように。

 9月8日、9日のイベント情報はこちらで。
 http://www.kaiseisha.co.jp/news/23431

2017年9月1日金曜日

ルベンとクリスティーナ

バルセロナの日々(20)


1999年9月12日 やっと3人を大聖堂に連れていった

 サルダニョーラに着いた翌日から、天気が許せば子どもたちを外で遊ばせるようになった。日本でも戸外でたくさん遊んできた三人だ。退屈しのぎにプレステやゲームボーイを持参してはいたが、そればかりになりたくなかったし、早く現地の友達をつくってほしかった。
 一番手近なのが、アパートのすぐ横の遊び場だ。ブランコと滑り台があるし、となりのアパートの外壁をゴールにしてサッカーをしている男の子がたいていいる。夕方になると遊んでいる子を見守りながらおしゃべりをする母親たちで、ベンチはすずなりになった。
 けれども、外に連れだしても、現地の子とすぐに遊びだせるものではかった。促しても、当人たちは尻込みするばかり。第一、顔形がまるで違う。それに、何を言われてもわからないし、何を言っても通じやしないのだ。二、三歳の子どもなら、言葉など関係なく遊びだせたかもしれないが、タイシですらそういう乳児期は通り越しつつあった。
「借りてきたねこ」とは、こういう状態を言うのだろうか。どことなく遠慮がちに三人かたまり、発散しきれないまま、じきにつまらないことでけんかを始める。スペインの子は人なつっこいというコメントを本で見かけることがあるがどうなのだろう。見ず知らずの相手を警戒するのは、どこも同じだった。

 ところが、中には積極的な子もいるものだ。空手を習っているという六年生のルベンくん。私たちが外に出るようになって一週間もたたないある日、近づいてきて自己紹介をしたかと思うと、翌日からアパートの入り口付近で三人を待ちうけ、遊びにさそうようになった。
 ほどなく、ルベンくんは誕生会にケンシを招待し、おかあさんのアナマリアに私をひきあわせた。いわば親公認の仲だ。こうして、四年生の妹のクリスティーナちゃんと二人で頻繁にアパートをたずねてくるようになった。アナマリアには、父親不在の家庭同士の気安さがあったのか。アナマリアはシングルマザーで、ルべンくんのおとうさんはマドリードにいた。おかあさんが仕事から帰るのは十時すぎ。だから、ケンシたちと遊ぶ時間は、子守のおばさんが世話をしていた。

 ルベンくんと言えば、一番に思い出す遊びが「かくれんぼ」だ。窓のシャッターをおろした真っ暗やみの寝室で、鬼が手探りで、隠れた子をさがす。いつ何を触るか、触られるかわからないのでスリル満点。びっくりしてひっぱたいてけんかになったり、クローゼットに隠れて背板をはずしたり、あわてて力まかせに押して電気のスイッチを壊したり、エスカレートすると少々危険だが、子どもたちが実に生き生きとする遊びだった。

 気温が下がってきた頃のことだ。思いがけない問題が発生した。我が家の室内は土足禁止だったのだが、ある日、玄関で靴を脱いだクリスティーナちゃんが、「あたしの足、すごく臭いの。匂ったらあたしだからね」と宣言した。気づくと、それまで素足にサンダルばきだったルベンくんたちが、靴下と靴をはくようになっていた。
 絶句した。あとでしばらく換気をしても、夜、帰宅したハルちゃんが、「今日、ルベンくん来たでしょう」と言い当てるほどの臭気をルベンくんたちはふりまいた。

 子どもの靴に対する意識が違うのだというのに気づいたのは、しばらくしてからだった。子ども靴の店で、三歳くらいの子に試着させた靴のひものしまり具合を、母親が熱心にチェックしている。「ははあ」と思った。日本の場合、家でも学校でも、一日何回も靴を履きなおすから、「着脱しやすい」が子どもの靴の第一条件だ。だが、あちらは脱げないことが大切なのだ。朝、身支度をしたら、家に帰るまでゆるんではならない。人前で脱ぐのはプールの着替えのときくらいのもの。それ以外はびしっと履かせておくのだから、むれるわけだ。それに、入浴せず、毎日シャワーですませているなら、子どものことだから、足の指のあいだなどいいかげんにしか洗っていなかったのかもしれない。

 子ども同士、よく衝突もしていた。うまく口で表現できないアキコやタイシがいきなり暴力をふるったり、ノーと言えずにケンシがむっつり黙りこんでしまったり。せっかく遊び始めても、お互いいやな思いをするだけの日もあった。でも、何があっても懲りずに遊びにき続けてくれたルベンくんとクリスティーナちゃんは貴重な存在だった。子どもの話し言葉や立ち居振舞いなど、私も彼らからはたっぷり学ばせてもらった。
 なのに、思い出すたび、足の匂いも一緒に思い起こしてしまうというのは、本当に申し訳ない。



2017年8月27日日曜日

リニエルス『エンリケタ、えほんをつくる』刊行!


『エンリケタ、えほんをつくる』
リニエルス作
宇野和美訳
ほるぷ出版

「ラ・ナシオン」紙に2002年から連載されている『マカヌド』(Macanudo) は、アルゼンチンでは知らない人のいないコマまんがです。この『マカヌド』の作者リニエルスの絵本が日本に上陸しました!

主人公のエンリケタは、『マカヌド』にも登場する、本を読むのが大好きな、想像力豊かな女の子。色鉛筆のセットをもらったエンリケタはいろえんぴつのセットって、にじのかけらみたいだね」といって、絵本をかきはじめます。どんな絵本ができるのでしょうか……

楽しくかわいい本になりました!

何よりも注目は、絵とぴったり合った描き文字です。
エンリケタが描いた絵本の部分は原作でもみな、鉛筆がきの描き文字なので、日本語でも描き文字でデザインしていただきました。子どもっぽいけれど、可読性がある描き文字なぞできるのかしらと心配しましたが、編集者さんとデザイナーさんが、原作のイメージどおりにしあげてくれました。

実は、ここはテキストもがんばりどころでした。文字部分は、手描きか、まんがの吹き出しかのどちらかなので、すべてひらがなにしなければならなかったからです。
漢字を使っている文章をそのままひらいただけでは、読める文にならないので、ひらがなだけでも読みづらくなく頭に入り、ひびきのよいテキストになるように、ああでもない、こうでもないと、頭をひねりました。
デザイナーさんが描き文字を入れてくださってからも、文字づらからやっぱり変えたくなったり、スペースの関係で文字数を調整しなければならなくなったり、大幅な手直しも入ってしまいましたが、編集者さんが「校正が終わるまでは、いいですよ」とドーンと構えていてくれて、とてもありがたかったです。変えてよくなった、前のほうがわかりやすいのではなど、修正についてはっきり言ってもらえたのも助かりました。

「エンリケタ」は少々なじみのない名前ですが、原題から離れないでほしいというリニエルスの要望があり、タイトルはこうなりました。日本でもエンリケタがかわいがられるようになるといいなと思っています。スペイン語圏では、大人気のキャラクターです。

絵本をつくりながら、エンリケタが、

いいおはなしでは いつでも「ふいに」なにかがおこるんだ
おはなしには ひらめきが かんじんなの

など、本好きらしいコメントをするのも、おもしろいところです。
こういう部分は、小学生も楽しめそうです。絵本だけでなく、幼年童話の棚にも置いてもらえるといいな。

英語版は、2016年のバッチェルダー賞のオナーにも選ばれています。

リニエルスのブログはこちら。http://www.porliniers.com/
エンリケタEnriquetaの顔のリンクを開いてみてください。エンリケタが登場する、『マカヌド』のコママンガが見られます。本を持っているのが多いでしょう? ネコのフェリーニと、テディベアのマダリアーガは、『えほんをつくる』にも出てきます。
Todas las tiras を開くと、テーマごとの検索もできます。「愛」「イマジネーション」「読書/教育」「映画」「環境」……というテーマを見るだけでも、『マカヌド』を読んでみたくなるのでは? 
『マカヌド』の全編を読みたい方、どこかの出版社に訳してくださいのコールを!

「ぱんつ 当たるの!?」
9月30日まで、刊行記念のプレゼント企画があります。
応募して、アルゼンチンのファッションブランド、ホォアナ・デ・アルコのグッズをあててください。ホォアナ・デ・アルコのデザイナー、マリアナとリニエルスは大親友だそうです。
www.juanadearco.jp

2017年8月25日金曜日

記憶の底の風景


 20日に北九州で開催されたセミナーに出席したあと、大分に寄ってきました。目的は宇佐市を訪れること。終戦後、朝鮮から引き揚げてきた両親が出会った場所です。

 このところ父の思考力は衰える一方。毎年、終戦記念日の頃になると、引き揚げのときの思い出話をしていたのに、今年は今が何月かもわからず、今日は終戦記念日だよ、と声をかけても無反応でした。母が「もう何度聞いたか」と嫌味を言っていた、以前、父のその思い出話をまとめたブログを再録します。
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父の終戦

韓国の釜山で終戦を迎えた、当時13歳だった父の思い出話。

終戦の年の春、親父が急に亡くなってね、「まだ若いのに情けない。自分とかわってやれればよかったのに」と嘆いていたじいさんが、それからいくらもしないで死んでしまった。

学校の校庭で玉音放送を聴いたとき、何を言われているのか、さっぱりわからなかった。でもすぐに、「明日から学校はない。内地に帰ったらこの書類を渡しなさい」と、学校から書類を渡されて学校は解散になった。

まもなく、近所の人が「軍属の乗る船があるが、よかったら乗せてやろう」とうちに来た。するとおふくろは、「この子と娘をのせてください。私は残ります」と言ったんだよ。びっくりしたよ。当時姉は16歳。帰ると言ったって、2年前に1度行ったことしかない、大分の親父のいとこの家が頼りだよ。行って面倒を見てくれるかもわからないのに、2人で帰れっていうんだから。一番上の兄貴が、兵隊で満州に行っていたから、おふくろはその連絡を待つというんだ。

船はもともと博多に着く予定だったが、途中で船体がいたんで志賀島に漂着した。だれかが綱をひいてつなぎとめてくれて、はしけで上陸した。翌日見たら、沖合にあるはずの船がばらばらになっていたから、間一髪だったんだな。

志賀島から、姉はおやじのいとこに迎えに来てくれるように手紙を書いた。すると、いとこの家の人と、思いがけず五高に行っていた2番目の兄貴が迎えにきてくれた。兄貴は、勤労奉仕で長崎にいるとき被爆したが、休みになったのでちょうど大分に行っていたらしい。それで、無事に親父のいとこの家についた。

あとできくと、8月になっておふくろは五高の兄になぜか200円を送金していたらしい。初任給が50円、60円の時代だから相当な金額なんだ。なぜおふくろが金を送ったのか、わからないが、おかげでいとこの家で面倒をみてもらえた。でも、居心地は悪かった。田舎で、中学に行っている子どもなんかまわりにいないのに、居候のくせに中学に行かせてもらうんだから。

9月に入って、姉が疫痢になった。死ぬ何日か前だったか、出されたおかゆを姉が食べないので食べたら、おばさんにえらい怒られてね。こっちはひもじくて仕方なかったのだけれど、ひどく後味が悪かった。

姉が死ぬ前日の夜、突然おふくろが帰ってきた。「お世話になりました」と言って、玄関で頭をさげると、リュックの肩ひもをざっと切って、中からたたんだお札を何枚も出して居候先のおばさんに渡した。釜山じゃ日本のお札はなかなか手に入らなかったのに、どうやってそんなに集めたのかわからないけど、途中でとられないように肩ひもに縫いこんで持ってかえったんだよ。おばさんも、「そんなことしなくていいのに」って、涙を流していたよ。

その翌日、姉が死んだ。学校の帰り道、近所の人に「姉さん死んだぞ、すぐ帰れ」と呼びかけられて、わけがわからず走って帰った。悲しかったなあ。半年の間に、3人も逝ってしまった。
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 両親がどのあたりに住んでいたか知りませんが、宇佐高校で知り合ったということ、宇佐八幡が近所だったことはよく聞いていたので、一度行きたいと思っていました。
 JRの宇佐駅から宇佐八幡までは4キロくらい。レンタサイクルを借りようと考えていましたが、雨になるかもと言われて、結局1時間に1本しかないバスで行きました。
 
 バス停で降りて、参道を歩き、蓮の池を通りすぎると、やがて鳥居。
 

石段をのぼって上宮へ。母のために、申年のお守りの根付を買い求めました。



 下宮もちゃんとまいってから、いよいよ、宇佐八幡から数百メートルのところにある宇佐高校へ。校門には、70年前の面影はまったくなさそうでした。


 建物は変わっても山は変わらないだろうと、幹線道路から学校にのぼる坂の途中から、遠くの山を撮りました。母に見せても、「はぁ?」という反応でしたが。


  町や村ではなく市なので、両親の思い出話からも、もう少し町っぽい場所を想像していたのですが、少なくともJRの駅と宇佐八幡の間は、こんな風景ばかり。


 引き揚げ体験という共通項をもっていた二人がひかれあうようになったのは、いつのことなのか。宇佐か、そのあと東京でか。
 記憶の底に沈んで、もう心をかき乱すこともない悲しみや初恋のときめきを思いながら、駅まで歩いてもどり、景色を胸に刻みつけました。