2015年4月25日土曜日

迷いをふりきって

バルセロナの日々(3)

 いや、むしろ最初は、「連れてっちゃえ」というよりも、「連れていくっていうのも、もしかしてありかな?」くらいの気持ちだった。
 そう思い至ったのには、実は現実的な理由があった。
 いくらかまとまった自己資金があったのだ。結婚前にためたお金をつっこんであった10年満期養老保険が、その年の春に満期になっていた。何か大事なことに使おうと思っていたお金。1年間(この時点では、留学は1年のつもりだった)子どもと留学できるくらいの額はあった。お金の工面に奔走しなくていいのは、大きな強みだった。

 けれども、本当に子どもを連れていってよいものだろうか。
 幼い頃の海外経験は、きっとかけがえのないものになる。翌年から1年連れていったとしても、帰ってきたとき上の子は小学校5年生。中学受験の予定もなし、勉強はなんとかなるだろう。けっしてマイナスにはならないはず。
 でも、そんなにうまくいくものだろうか。都合よく考えすぎてはいまいか。3人とも、スペイン語はおろか、外国が何かすらわかっていない。どのくらいで話せるようになるのだろう。言葉がわからないのはきついだろう。友だちと別れさせるのもつらい。母親の身勝手で、子どもたちによけいな努力を強いてよいのだろうか。
 そんな迷いの真っ只中で出会ったのが、次の文章だった。
 須賀さんが私の目をのぞきこんで、いつにない語気でいったのを思い出す。「あなたみたいな人は一度は外に出るべきよ。子どもたちも少し大きくなったら、 じゃなければ三人連れてってもいいじゃない。どうにかならないの」(『追悼特集須賀敦子 霧のむこうに』(河出書房新社)所収 森まゆみ「心に伽藍を建てたひと」より)
 タイトルからして「これは!」と思った。
 須賀さんの『ヴェネツィアの宿』という本の中に、「大聖堂まで」という章がある。そこで須賀さんは、大学院の女ともだちとの議論はほとんどいつも「女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくには、いったいどうすればいいのか」ということに行きついたと回想し、さらに、そのころ読んだ「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」というサン=テグジュペリの文章に揺り動かされたと綴っている。須賀さんの文章の中でも一番好きで、何度も何度も読み返してきた箇所だった。
 そこに持ってきて、「いつにない語気で」だ!
 自分が「あなたみたいな人」にあたると思ったわけではない。けれど、外国に住むのに、3人の子を連れていくという選択肢もある、少なくとも子どもにとって悪いことでない、と肩を叩かれた気がした。
 よし、もう子どものことで迷うまい。子どもたちにも得るものがあると信じて連れていこう。
 私は本腰を入れて、スペインに行けるかどうかを調べ始めた。

2015年4月19日日曜日

パン・コン・トマテ(パ・アン・トマカッ)にいいトマトは?

昨日は、セルバンテス文化センターで「サン・ジョルディの日」でした。

午前の読み聞かせで読んだのは、バルセロナ在住のイラストレータ―、アルバ・マリーナ・リベラの絵本2冊。
『パパのところへ』(ローレンス・シメル文/岩波書店)
En casa de mis abuelos (texto: Arianna Squilloni, Ekaré)
このところ、カタルーニャものは翻訳していないので、ちょっとムリやりっぽいカタルーニャつながりですが、右の本は、風景がカタルーニャのmasía(田舎家)ふうで、すてきでした。


午後の読み聞かせは、こちら。
El rei de la casa (texto e ilustración: Marta Altés, Blacky Books)
『ピトゥスの動物園』(サバスティア・スリバス文/スギヤマカナヨ絵/あすなろ書房)
左の絵本は、英語版もありますが、作者はカタルーニャの人で、カタルーニャ語版もあります。ちょうど先週、バルセロナに帰っていた知人に、買ってきてもらいました。とってもかわいいお話。
『ピトゥス~』は、1960年代に書かれた古典的作品で、カタルーニャではもう50年以上も読みつがれているお話です。さわりだけ日本語で読んで、紹介しました。




すごくうれしかったのは、バルセロナ留学時代に1年間同居してくれていた若い友人(あとで留学記にも登場します)が、ご主人と小さな息子さんと一緒に来てくれていたこと。もう10年近く会っていなかい彼女が思いもかけず現れて、まだドキドキしています。

さて、なかなか肝心のトマトの話にならず、ごめんなさい。
昨日のイベントで、パ・アン・トマカッの指導をしてくれたレストランBIKINIのバラオナさん、「使うトマトは、日本ならどれがいいですか?」の質問に、「日本の野菜は見た目はいいけど、味はいろいろ。普通のトマトは味がないけど、フルーツトマトだと甘すぎる。ミニトマトとか、もう値段がさがっているような熟れすぎたトマトがいい。ガスパチョのときも、普通のトマトとフルーツトマトを半々でまぜたりします」と説明してくれました。
バラオナさんが育ったリェイダあたりでは、どのうちも保存のきく種類の真っ赤なトマトを育てていて、台所に吊っておくそうです。そうすると、外はきたなくなっても、中はみずみずしくて、冬まで楽しめると。
味の濃い中玉トマトもよさそうですね。書いているうちに、食べたくなりました。
明日はパンを買ってこよう!

先日別のイベントで出会って話をした方が遊びにきてくれたり、バストネスの踊りを教えにいらしていた方とお話できたり、いろんな再会、出会いがうれしい1日でした。

2015年4月18日土曜日

留学してしまえ!

バルセロナの日々(2)

 それにしても、学生や学者でもあるまいし、なんでまた留学しなければならなかったのか。
 一度外国に住んでみたいという気持ちは、さかのぼれば高校時代からあった。けれど、思い切れないまま、大学を出、就職し、結婚し、子どもを持った。あーあ、一生外国暮らしとは縁がないのかと、思ったものだった。
 心の底に押しこめていた日本脱出願望が再燃したのは、長男出産後、本格的に翻訳にとりくみだした頃からだった。やっぱり留学してみたい! 翻訳を一生の仕事にしたいという意志がかたまるにつれ、このままでいいのか、という思いがふくれあがっていった。
 現地の経験がないのは大きなコンプレックスだった。旬の野菜や果物の味、季節ごとの風や光の感じ、町の景観や匂い。そういったことを実感として知らないままの翻訳は、ためらいと不安があった。文字にあらわれない人々の表情や仕草、声の調子など、想像の土台となる体験がほしかった。
 会話ができないのもつらかった。読むのはよくても、話すとなると腰がひけた。翻訳に携わるなら、外国から作家を招いたとき案内できるくらいしゃべれないとなあ、という思いがあった。
 翻訳修行を始めてから、旅行で2回スペインに行きはした。一度目は、末の子がおなかにいた1994年春、翻訳中の作品の著者に会いに。2度目は97年秋、児童図書館とブックフェアを見るため。一度目のとき恩師から、「作家に会ったりしたら、こんなにスペイン語のできない人が自分の作品を訳すのかと、がっかりされますよ」と、さんざんイヤ味を言われた。実際、会話力のなさには、ほとほと泣かされた。
 それに、旅行は所詮旅行だった。留学が無理だからと、子どもの世話を母や家人に頼みこんで駆け足で旅行をしても、できることは限られている。腰をすえて勉強したいという思いがかえってつのった。
 スペインのことをもっと知りたい。スペインの児童文学を理論的に語れるようになりたい。自己流でなく、一度きちんと勉強したい。現地の書店や図書館で本をじっくりとさがしてみたい。スペイン語を話せるようになりたい。
 だけど、どうして留学なんかできるだろう。
 子どもはどうするの? だれが面倒を見る? 
 留学と言うと、まずネックになるのは子どもだった。第一、つれあいがうんと言うわけがない。両親も卒倒ものだ。子どもの友だちの母親たちや近所の人からも、どんなふうに言われるだろう。
 やっぱり、子どもが高校を卒業するくらいまで待つしかないか……。
 でも、行きたいなア。住みたいなア。勉強したいなア。
 留学願望の内圧が、そんなふうに高まりきった1998年夏の終わりか秋のはじめだったろうか。はじけるように、「じゃあ、子どもも連れてっちゃえばいい」という考えがひらめいた。
 そうだよ、連れてっちゃえばいいんだ。どっちみち子育てはほとんど一手に引き受けてるんだもの。日本にいようが、外国にいようが同じじゃないか。小西章子さんが『スペイン子連れ留学』を著されたのは、もう20年以上前のことだ。行けない、行けないと、うじうじうらめしそうにしけた顔をしているくらいなら、いっそ、飛び出してやってみればいい。
 これがすべての始まりだった。

2015年4月15日水曜日

サン・ジョルディの日

4月23日はサン・ジョルディの日。
バラと本を贈りあうカタルーニャのお祭りですが、4月18日(土)に、セルバンテス文化センター東京でもお祝いをします。11:30から16:00まで。

ここ数年私も、読み聞かせで参加していますが、今年は11:45と14:15の2回、ちょこっと登場します。

カバで乾杯をしたり、『ピンチョス360°』の著者であるジュゼップ・バラオナさんの指導でパン・アン・トゥマカット(トマトをぬったパン)をつくったり、大人も子どもも楽しめるプログラムのようです。お時間のある方、どうぞ遊びにきてください。

14:15の読み聞かせでは、カタルーニャ児童文学の古典『ピトゥスの動物園』El zoo d'en Pitus の一部を読み、その後、日本語版の販売もします。
翻訳出版されて、すでに10年近くたちますが、国語の教科書にも掲載されていて、「うちの子、あの本、大好きでした」とよく声をかけていただく本です。

くわしくは、こちらをどうぞ。
http://tokio.cervantes.es/FichasCultura/Ficha98561_67_25.htm

2015年4月11日土曜日

バルセロナの日々(1)

到着!

 とうとう来てしまった。
 1999年9月7日。バルセロナはプラット空港におりたった私は、真夏のような日差しを受けて青空に映えるヤシの木をあおぎ、大きく息を吸いこんだ。3人はリュックをしょって、私によりそうように立っている。
 一番大きいのが長男のケンシ、小学4年生。3年間の学童保育生活のあと、少年野球チームに入り、自由な放課後を満喫していた遊びざかり。真ん中は長女アキコ、小学1年生。小学校にも慣れ、ピアノを習いはじめ、一輪車をおぼえたところ。一番チビは次男タイシ。夜はオムツパンツのお世話になっている、保育園の4歳児クラス。
 2年半にわたるバルセロナでの母子4人の暮らしの始まりだった。

 渡航の目的は留学だった。夫ではなく私が、10月から2年間、バルセロナ自治大学大学院に籍を置くことになったからだ。
「3人の子を連れ、夫を日本に残してスペインに留学」と言うと、渡航前も、滞在中も、帰国後も、たいがいの人が仰天した。無理もない。普段ほとんど子どもがらみで接している近所の母親層の目にも、私が3人の子持ちであることを知っている仕事関係の知人の目にも、私は留学の可能性から最も遠くにある人間だっただろうから。
 仰天の次には、各種のリアクションがあった。ポジティブなもの、ネガティブなもの、どんなものかは容易に想像がつくだろう。
 けれども、どんな反応があろうと、留学するという私の決心は変わらなかった。公表した時点で、心が揺らぐ段階をとっくに通り越していたからだ。
 学生じゃあるまいし、留学は、決まりもしないうちからだれかれとなく吹聴するような話題ではなかった。こういうことは、ひそかに準備を整え、ある程度決まってからまわりに言うというのが一般的だろう。とはいえ、いったん準備にかかれば自然と人とかかわるし、最低限の人にしか告げないつもりでも、だんだんと周囲に知れていく。実際、子持ちだとよけいに、隠したいのに言わざるをえない機会があるようだった。だから、「やっぱりやーめた!」とは次第に言いにくくなる。外の目を意識しつつ、ますますやっきになって実現のめどをつけようとする。そうして、ようやく人に話してもいいところまでこぎつけた。
 何を言われようと、今更という気持ちだった。気持ちが乱れこそすれ、やめようとは、口がさけても言う気にならなかった。
 やりたいこと、見たいこと、体験したいことが山のようにあった。
 当然不安もあった。同じくらい、いや、それ以上にあった。子どもたちはだいじょうぶなのか、そもそも自分たちは暮らしていけるのか、勉強は本当にできるのか、子どもも私もスペイン語を自由に話せるようになるのか、あげだしたらきりがなかった。
 でも、行こうと決めたときから、私には前進しかなかった。心配だ、心配だと言っていても始まらない。安心するにはどうすればよいかを考えて、外堀をかためていった。何かがうまくいかなかったとしても、それですべてが終わるわけじゃない。状況を見ながら、次々と出現する選択肢を選び選びここまできたし、これからもそうしていくつもりだった。
 もちろん、がんばってもどうにもならないことだってあるかもしれない。でも、そのときはそのときだ。がんばって、がんばって、本当にダメだと思ったら、日本に帰ろう。見極めの基準は子どもたち。子どもたちがスペインにいられないと見たら、いさぎよく日本に帰ろう。

 不安や迷いをはらいのけながら走りだし、勢いでころがりこむように来てしまったスペイン。
 子連れの海外生活は、若い留学生の自由さとも、紀行作家の気ままさとも無縁だった。飲みにも行くことも映画を見ることもほとんどなく、クラスメートとおしゃべりに興じる時間も思いどおりにならなかった。週末に観光名所を訪れる機会も、勉強の時間も限られていた。
 けれども、子どもは制約となる一方で、窓だった。「オンナ子ども」の私たちには、家庭と地域にぐっと開かれた暮らしがあった。企業というしがらみなしに、出会った人たちと個人と個人で向き合うことができた。子どもや母親たちの素顔、人々の生活ぶり、四季折々の味や楽しみ……、それは、翻訳に携わる私がいちばん見たかったものだった。
 帰国後、当時のことを書いてみてはと、冗談半分に声をかけてくれる友人がいた。けれども、子どもたちをだしにするようで抵抗があった。ところが、ほとぼりがさめるにつれ、気が変わってきた。当時のことをずんずん忘れていく子どもたちを見ているうちに、言葉にして残しておきたいという気持ちがむくむくと頭をもたげてきたのだ。どうしてバルセロナに向かったのか、バルセロナで私たちはどんなふうに暮らし、何を見て、何を思い、何を感じてきたのか。
 記憶の中で、そこだけ陽光に包まれているような2年半。朝、ベッドで目覚めたとき、「ここはバルセロナなんだ」と思うと、それだけで元気が出たキラキラとした日々のことを、思いだしながら綴っていこうと思う。

2015年4月10日金曜日

改めましてこんにちは! 

2年前まで、どうにかこうにかブログを書いていたのですが、このところFacebookに書き散らすばかりで、個人的なまとまった文章を書けなくなっていました。
でも、やっぱり書いてみようという気持ちになった裏には、昨今のネット環境があります。
読者が読んで感じたことに対して、訳者がぐだぐだと裏話を書くのは恥ずかしいと思う一方で、スピードの速いネットで矢面にさらされ、すぐさま「過去」に置き去りにされていく事物の盛衰を見るにつけ、黙っていられなくなりました。訳した以上、できる限り作品を護りたいというのは人情でしょう。原作者のことや、作品の背景など、スペイン語ではダイレクトな情報を得られる人は限られています。もっともっと発信は必要かなと思い至りました。
しょせん、翻訳者が訳書の外で言うことは「言いわけ」という自戒をこめつつ、ぼちぼち更新していきます。
読んでくださってありがとうございます!