2015年7月19日日曜日

家族寮の夢やぶれ

バルセロナの日々(8)


 次なる懸案は住むところだ。私たちは、母子4人プラス1名が住める家を確保する必要があった。
なぜプラス1? それは、ハルちゃんがいたからだ。
 ハルちゃんは、卒論の資料提供が縁で知り合った大学の後輩だった。私よりひと回り以上若かったが、バルセロナ好きと児童文学という共通項で親しくなり、1997年のスペイン旅行に同行してくれた仲でもあった。
 行き先をバルセロナと決めたとき、すぐさまハルちゃんのことが頭に浮かんだ。ちょうどその頃、ハルちゃんはバルセロナに留学していたからだ。
 1年滞在を延ばして、いっしょに住んでもらえないかな。
 ふいに、そんな考えが浮かんだ。
 同居してもらえたら、どんなに心強いだろう。共同で借りれば家賃も安くあがる。ハルちゃんも、もう少し勉強したいと思っているかもしれない。
 そんな突拍子もない思いつきだったが、人生のタイミングというものだろうか。ハルちゃんはすぐにオーケーしてくれた。ありがたかった。「母子4人じゃないんです。前から留学している後輩もいっしょなんです」という説明は、留学をめぐる周囲の奇異の目からの緩衝材にもなった。
 もっとも、ストレスいっぱいの不安定な母子に1年つきあわされたハルちゃんはたまったものではなかっただろう、と今になってつくづく思う。これについては、後であらためて書きたい。

 バルセロナ市内に下宿していたハルちゃんは、6月の一時帰国したが、それまでにバルセロナのアパートのことを調べてくれた。けれども、ハルちゃんの友だちで、子連れでバルセロナにきているという人が借りていたアパートの家賃は、私の奨学金の3倍、とても手が出なかった。その地区は、ペドラルベスという高級住宅街だとあとで知ったが、その時は、バルセロナはどこもそんな値段なのかしらと、暗澹とした気分になった。
 旅行者として行ったことしかない私には、バルセロナの住宅事情も土地事情も見当がつかなかった。
 そんなとき、自治大学のキャンパス内に家族寮があるという情報をもらった。インターネットで調べると、家賃105,000ペセタ。4LDKの3階建てのテラスハウスだった。家具つきなので、冷蔵庫や洗濯機といった家電製品や食器もついていてすぐ住める。よさそうだ。
 ただし、問題がひとつあった。子どもの学校だ。コロメール教授によれば、キャンパス内にも公立の小学校があるが、空きがないらしかった。「空きがない」とは、いったいどういうことだろう。住んでいる地域で自動的に学校が決まる、日本の公立小学校の制度からすると、わけがわからない言葉だった。公立の学校でも定員があるのだろうか。学校のことは、住宅事情以上に不明なことだらけだった。
 ともかく、7月の旅行で家族寮の見てみよう、そのうえで、子どもの学校のことや市内のアパートのことを留学生課の人にきいてみようと決心した。

 家族寮は大学のキャンパス内、カタルーニャ鉄道の駅を降りて、教育学部とは反対方向に行ったところにあった。
 駅から上り坂を歩くこと10分あまり。両脇に夏草がぼうぼうしげり、じりじりと夏の太陽が照りつける片側一車線の道だ。たちまち喉がカラカラになった。これが本当に大学の中かと疑いたくなる。寮の事務局まで、歩いている人とはひとりも出会わなかった。
 寮の事務局は、キャンパスの端っこにあるホテルの隣にあった。アポイントメントをとっていた係の女の子が、さっそく連れていってくれたのは、事務所から駅のほうへ少し戻ったところにあるテラスハウスだった。7,8軒の家が連なった箱のような建物。女の子は、左から2軒目の家の鍵をあけた。
 中に入れてもらって愕然とした。
 確かに家具つきの4LDKだ。でも、ついている家具といったら、まるでベニヤをはりつけたみたいなしろものだし、壁も床もコンクリがむきだしだ。とても素足ではたえられそうにない。この殺風景なコンクリートの箱を子どもたちがほっとできる空間にできるだろうか。カーペットを敷いたり、壁に何か貼ったり、かなり手を入れないといけないなと直観的に思った。
 それに、まわりにお店もない。こんなところで、どうやって家族4人の胃袋を満たすだけの買い物をできるだろう。女の子に思わずたずねた。
「みなさん買い物はどうしているんですか」
「車ですぐのところにスーパーがありますから」
「でも、私、車を持つつもりはないんです……」
 案内の女の子は黙りこんだ。
 それに、10軒たらずのテラスハウスで、子どもたちの友だちが見つかるだろうか。こんなさびしいところで、どうやって暮らしていけるだろう。
 ここじゃだめ。絶対にだめ。
 家がすごく快適なら、思いきってここに決めて、子どもの学校の問題はあとで解決することも考えられる。でも、快適でもないのに、不便さを我慢しながら、わざわざここに住むことはない。
 家族寮に住むという考えは、私の中で完全に消えた。
 仕方がない。留学生課の人と相談してから考えよう。
 留学生課の人には、その翌日、会うことになっていた。どうかいい展開になりますように、と祈るような気持ちだった。

2015年7月3日金曜日

翻訳は難しい

昨夜は、セルバンテス文化センターで、柳原孝敦さんの講演「翻訳は難しい」を聞いてきました。

先日、私自身も、3名の児童文学翻訳者とのイベントをジュンク堂池袋本店でしましたが、翻訳の話というと、自分でもよく足を運びます。最近では、〈ことばの魔術師 翻訳家・東江一紀の世界〉のトークイベントや、ラカグであった、酒井順子×中島京子×鴻巣友季子「すべての女はスカーレット・オハラである~『風と共に去りぬ』に愛あるツッコミを入れる~」 も行ってきました。

柳原さんのお話も、例にもれずおもしろく聞きました。
セサル・アイラのCómo me hice monjaのことも、¿Querés c...? のことも、La Nación の記事のタイトルや最後の呼びかけのこと、ボラーニョの通話のbueno・・・

そういった微細な事柄をどう日本語にしていくかという話を聞いて、やはり翻訳家というのは、日本語力が必要なんだなと思った方も多いと思いますが、私は同時に、前提になっているのは外国語の読解力だな~、と思いました。

小説家は、物語の中のちょっとした言葉にも、何かのニュアンスや示唆、時代の空気や人物像の雰囲気などを負わせていますが、ひととおり文法を終えただけの読解力だと、なかなかそういった個性までたどりつけません。読書の経験値が必要です。
翻訳の過程で、よくネイティブに確認することがありますが、その疑問が、「単純に自分がスペイン語をわかっていないのか、それとも、この作家のスタイルの問題か、はたまた、この登場人物の発話ゆえか」が、大いに問題であることもしばしば。
読みによって、翻訳者は鍛えられます。
意識的な読書は、翻訳者にとって筋トレですね。だからといって、読書の愉しみが減るわけではなく、「そうか!」と気づいて、ひとりニンマリしながらのトレーニングです。

最終的には、翻訳者の裁量で日本語となって伝えられていくのが、おもしろくもあり、おそろしくもあり。
柳原さんのお話は、学者としてのアプローチに加え、多数の翻訳の経験からくる、やや職人的な実感もこもっているようで、興味深かったです。

2015年7月1日水曜日

テレサ・コロメール教授

バルセロナの日々(7) 

 奨学金の面接が終わった頃、ふと、ある考えが浮かんだ。奨学金の結果を待たず、7月に一度、バルセロナに行ったほうがよいのではないだろうか。
 テレサ・コロメール教授に一度会っておきたい。
 初めの手紙から、トントン拍子で入学許可証なるものをもらった。だけど、それだけで本当に大学院に入れるのだろうか。とても不安だった。いざ行ってみたら、入学できないなんてことになったら目もあてられない。
 住むところや子どもの学校のことも、できればはっきりさせておきたかった。
 コロメール教授にメールを書くと、「それはいい。その頃なら大学にいるからいらっしゃい」と、すぐさま返事がきた。
 さっそく私は、旅行の計画をたて始めた。コロメール教授との面会、学生ビザ取得のための書類の入手、大学院入学の確認、住むところの確保、子どもの学校の手続きの確認。4日間の日程はすぐにいっぱいになった。
  
 バルセロナ自治大学は、バルセロナ市の北にそびえる山並みの向こう、市内からカタルーニャ鉄道で30分ほど郊外に出た、ベリャテラというところにある。きれいな地名だ。ベリャテラは、カタルーニャ語で「美しい土地」の意味だ。
 鉄道の起点はカタルーニャ広場。1999年の7月初旬、はじめて鉄道にのった。市の北端にあるサリア駅の先まで15分くらい地下を走ってから、電車は夏の光の下に出た。と、次の瞬間、朝顔に似た群青の花の群生が目に飛び込んできた。暗やみに慣れた目に、花の色がまぶしい。花の青と空の青、輝く陽射しと、両側からいきなりせまってきた山の緑の風景は、どことなく、つれあいの実家に行くときに乗る近鉄吉野線を思い出させた。
 カタルーニャ広場から15分で、こんな場所があったなんて。思いがけないぶん、印象が鮮烈だった。そんな山も、サンクガット駅に着くころには途切れる。土地が平坦になり、まもなく大学駅に着いた。
 
 キャンパスは、なだらかな丘陵のようなところに広がっていた。駅南側のプラサ・シビカを中心に、学部の建物が点々とある。ちょっとはずれると、これが大学の中かと目を疑うような草むらや森があった。
 電車を降り、教育学部はどっちだろうときょろきょろしている間に、一緒に降りた人たちはいなくなっていた。試験の時期を過ぎた夏のキャンパスは閑散としている。「駅からは、人に聞けばすぐわかる」と言われていたものの、聞く人もいない。プリントアウトしておいた構内図を手に、教育学部の建物にたどりついたときには、暑さと焦りでぐっしょりと汗をかいていた。
 研究室をようやくさぐりあてノックをし、返事がないけれど思い切ってドアをあけた。電話中の女性が振り向き、手をひらひら振ってにっこりした。金髪のストレートのショート。雑誌の写真で見たよりも髪が短いけれど、コロメール教授だとわかった。
 白いパリっとした木綿のブラウスに、オフホワイトの綿パン、素足に白いデッキシューズ。青い目。40代半ばか。知的でさっそうとした印象だ。
 電話が終わると、
――アル フィンAl fin.
 と言って、教授が満面の笑みでこちらにやってきて、あいさつのキスをしてくれた。「とうとう会えたわね」ということかなと、うれしくなって私もほほえんだ。
 教授は、大学院の講義のこと、単位の取り方のこと、カタルーニャ語の語学コースのこと、子どもの学校のこと、アパートさがしのこと、ビザ申請のための書類のことを、ちまちまとした字でメモをとりながら説明してくれた。
「本当に来ていいんですか」などと聞くのは野暮だった。2ヶ月後に当然私がくるものとして、話は進んでいった。教授は、事務的なことは不得手のようだったし、細々と世話をやくタイプではなさそうだった。でも、遠方から自分のところに子連れでくるという、東洋人の女性の勉学を支えてやろうという誠実さが感じられた。
 壁には、絵本のポスターが貼られ、書棚にはなじみのある児童文学関係の本が並んでいる。
 ここは共通の言葉がある場所だ。ここなら勉強できる、という思いがわいてきた。

「がんばって!」という声に送られて、短い対面を終えて研究室のドアをしめたとき、緊張のあとの脱力でふぬけのようになった私の胸に、留学がようやく実感となって迫ってきた。
 来ていいんだ!
 その数ヶ月後、自分がどんな苦戦を強いられるかなど夢にも思わず、喜びをかみしめた。